「おいしいものは恥ずかしい - 中山千夏」おいしいおはなし ちくま文庫 から
「私はおいしいものが好きで」
というふうな言い回しが、昔からあったとはどうも思えない。いや、もちろんあったのだろうけれど、耳にしなかった。古い小説やエッセイで読んだこともないと思う。いつの頃からか、人々が、まるで挨拶代わりみたいにして、こんなセリフを言い始めたような気がする。ともかく私は、ある頃から、頻繁にこんなセリフを聞いたり読んだりするようになり、最初は耳新しい奇異な感じを味わったが、そのうちには自分でも、
「ああ、私もおいしいもの、好き!」
なんて答えるようになっていた。答えながら奇異な感じは消えないで残り続け、今でもどこかおかしいと思う。
考えてみると、やっぱりこの言い方はヘンである。だって、おいしいものが嫌いな人なんて、いるのだろうか?どんなヘソ曲がりでも、「私はおいしいは嫌い、まずいものが好き」とは決して言わないし、思いもしないだろう。
おいしいものが好きなのは、誰にでも共通する決まりきったことなのだ。決まりきったことだから、昔はみんな、特にそれを言葉にして言うことがなかった。それが、いつの頃からか口に出して言うようになった・・・。
なぜだろう?私たち現代の日本人は「おいしいものが好き」という、誰にとっても当たり前のことをわざわざ表明することで、実のところ、いったい何を言おうとしているのだろう?
おそらくこれは、最近の私たちの、ある種の傾向の一部だ、と私は思う。その傾向とは、欺瞞的な禁欲を捨てて人間の欲望を素直に肯定する傾向、とでも言おうか。それよりいっそ、昔風に簡単に、「恥知らず」と言おうか。
人間にはいくつか、そこはかとなく恥ずかしいことがある。いや、あった。
たとえば用便。オトナが見守るオマルの上や、仲間と並んでの大空の下、平気で爽快に用を足していたのが、ふと恥ずかしくなり、隠れてこそこそとしかできなくなり、時には関連した話をするのもはばかられ、用便などしたことがないようなふりさえする。
またたとえば性欲。もの心ついてみると、異性に魅かれる気持(場合によっては同性に魅かれる気持)がなんとも恥ずかしい。性的な肉体の快感を追求したい気持は、もっと恥ずべきもの、マトモな人ならぐっと押さえて生きるべき恥であるから、それをあからさまにした仕業は、恥を破った罪、破廉恥罪と呼ばれる。なぜか男性以上に慎みを求められる女性は、性欲など無いふりをするのが普通であった。
しかし、そういう態度はシンドイばっかりでアホらしいではないか、こういう生理、こういう欲望を持っているのが人間というものなのだ、ごまかしはやめてオノレを直視しよう、直視してその生理、その欲望を否定するのではなく(否定したら人間をやめるしかない!)、おおらかに肯定して、ネアカに生きようではないか-となったのが最近の私たちだろう。
かくして、家の北側の暗い片隅に閉ざされていた汲み取り便所は、花と芳香剤を飾ったウォームレツトやウォシュレツトに変身し、「うちのトイレは・・・」と主婦の話題にも登場し、建築雑誌のグラビアぺージやテレビ画面にまであらわれるようになった。デパートのトイレなんかで、自分の音を消すために水を流し続ける女性はあるにせよ、おおかたの女は、自分の自然の欲求をことさら恥じることはなくなった。