「柴又帝釈天と新宿 ― 種村季弘」朝日文庫 江戸東京《奇想》徘徊記 から
柴又駅前に寅さんの銅像が立っている。雪駄ばきに中折れ帽、トランク一つをぶら下げて、どこぞの高市[たかまち]から戻ってきたのか、それともこれからふらりと旅に出るのか。
でもこちらには、銅像よりも駅前広場そのもののほうがなつかしい感じがする。戦後のバラック建て飲食店がそのまま残っている。駅前売店、フィルム速成現像店、駄菓子屋、弁当屋、ラーメン店―その一軒の立ち食いソバ屋に寄って三百円のラーメンで腹ごしらえをした。
柴又街道を横切って門前町に入ると、さすがに古色が匂う。川魚のつくだ煮、名物の草団子、うなぎ蒲焼の川千屋。そうか、いま思い出した。五〇年代に学生だった当方にとって、柴又といえば寅さん映画よりはむしろ『大番』だった。加東大介の丑之助と淡島千景のおまきさんが川千屋の二階でランデブーするのだったっけ。
二天門をくぐると瑞龍の松のある帝釈堂だ。ここでお賽銭をあげて帰ってしまってもいいが、せっかくだから大客殿と𨗉渓園[すいけいえん]を拝見しておきたい。帝釈堂の外壁の四方にはみごとな木彫り彫刻が彫り込まれている。法華経の説話を続き絵にしたものだ。さらに法華経彫刻に行き着くまでの回廊の欄間には、参詣者の道中風景がレリーフに仕立ててある。それを見ると、房総方面から来て立石(葛飾区)の掛け茶屋で休んでから詣でるのが定番のコースだったと知れる。いずれにせよ房総との関係が浅くない。名物の草団子のよもぎも房総から仕込む。だから材料に困らないのだと聞いたことがある。
かつては都心方面からの参詣客も多かった。明治四十四年(1911)刊の若月紫蘭『東京年中行事』によれば、帝釈天の初庚申の日には上野から七回の臨時電車が出たという。乗客の総数は八千六百余人。一粒御符[いちりゅうごふ]という小さなお札十七万枚を売りつくした。
電車でくる人のほかに夜通し歩いてくる人がいた。それを目当てに向島の小梅、曳舟通りあたりからもう夜通しの夜店が立った。「壺焼屋おでん屋なんど、一、二町毎に腰掛け場を設けて客を呼んでいる。」
夜通し歩いてやっとのことで境内にたどりつくと、両側の露店のカンテラがずらりと並び、本堂はもう講中の面々で芋を洗う混雑、といったようなわけで、寅さん人気の今時よりずっと繁昌していたようだ。
帝釈天の裏手の門から、尾崎士郎『人生劇場』でおなじみの川魚料理の川甚の前を通って江戸川の土手に出る。対岸が松戸の矢切だ。その少し南が市川の国府台。折しも快晴の日和とあって、ひろびろとした河川敷にはピクニックの家族連れ、犬を連れた散歩人、野球少年、乳母車に赤ちゃんを乗せた若夫婦なんぞがのんびり散歩している。
川岸のベンチはご老体のひなたぼっこの特等席だ。その真ん前に「矢切の渡し」の発着所がある。向こう側から船が出るのだが、こちら側で乗ってそのまま戻ってくる人が多い。
昭和四十年頃、俳人石田波郷が『江東歳時記』の取材でここを訪れたことがある。渡し船は交通機関としてまだ現役だった。「一、大人十円、小人五円。一、自転車十円、一、風水害の場合は以上の限りではありません。」との貼紙があったそうだ。
「上は葛飾橋、下は市川橋までの長い間隔は、この渡船の利用価値を失わしめない。」波郷はそう書いているが、その利用価値とやらもそろそろ疑わしくなっていたのだろう。
用もなく乗る渡船なり猫柳
と句のほうでは実用的な価値に懐疑的だ。