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「夜 その過去と現在(抜書) ― 倉橋由美子」精選女性随筆集 倉橋由美子 文春文庫 から

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「夜 その過去と現在(抜書) ― 倉橋由美子」精選女性随筆集 倉橋由美子 文春文庫 から

 

ところで、老年にいたって事情が変わった。老年というのは、私の場合、五十歳以降をさす。もともと故障が多くて病気との付き合いには慣れていたつもりだったけれども、ついに付き合いきれない奇怪な病状が現れたのである。高血圧、冠状動脈硬化その他もろもろはまだいいとして、左耳に自分の心拍音(それも不整脈の)が響きわたるという奇怪な病状については「頸動脈海綿静脈洞瘻[ろう]」という病名があてがわれたり、いやそうではないといわれたりで、結局はよくわからないし、治す方法もわからない。これ以上負担の多い検査を繰り返したりメスを入れたりすると、そのまま命を失いそうで、その点私は「名医」を神様か教祖様のように信じ、すがるという気持ちにならない人間である。

こうして自分の心拍音を聞きながら生きているのは発狂しそうな状態なので、そうなってからは、夜を迎えるのが怖くなった。まず、黄昏時とか夜の帳[とばり]が下りるとかいう、あれがいけない。夜が近づいていると思うだけで鬱々としてくる。要するに老人性の鬱病なのかもしれない。

李商隠[りしよういん]の「楽遊原」という五言絶句、「向晩意不適 駆車登古原 夕日無限好 只是近黄昏」には、日暮れに近づいてなんとなく心がはずまない(意適[かな]わず)とある。それはわかるけれども、夕陽が限りなく美しい(夕陽無限好)という気分にはなれない。

そして夜になる。夜になると怖い。まずは眠れない恐怖がある。夜が更けて外界の物音が減って静かになればなるほど、例の自分の心臓を打つ音を聞かなければならなくなる。これではとても眠れたものではない。その眠れない夜が、秋とともに長くなる。秋の夜長に本を読むことができるなら申し分ないが、今はそんな状態にはない。長い本を読むのも書くのも無理である。

 


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