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「「作者が自ら楽しむ」こと - 仁平勝」 角川俳句2024年4月号【大特集-俳句と教育】から

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「「作者が自ら楽しむ」こと - 仁平勝」 角川俳句2024年4月号【大特集-俳句と教育】から

本題に入る前に、昔こういう文章が書かれたのを思い出して(あるいは、知っておいて)もらいたい。

そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じやうに、俳諧的なものをしめ出してもらひたい、といふことである。

昭和二十一年に発表された「第二芸術-現代俳句について」である。これを書いた桑原武夫は、今日ではまず見かけない(と思いたい)ゴリゴリの近代主義者だが、学校教育で俳句を教えてはいけない理由は、「俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはない」からだそうだ。そういいながら一方で、「文学ずきの青年が役所や会社へ勤めたとき、俳句をたしなんむものは概して上役の覚えよく、小説を作るものは評判が悪かったことを私は理由のあることと思ふ」などと非科学的なことを書いている。
敗戦直後のことで、いわゆる文化人がアメリカの占領政策に忖度しながら、日本の伝統的な文芸を批判したくなるのは、まあ仕方ないだろう。この文章は第二芸術論と呼ばれ、俳人たたにショックを与えたという。むろん、その賞味期限はとっくに切れているが、どういうわけか、いまだにこの第二芸術論を持ち上げている俳人や評論家がいる。困ったものだ。
さて、「俳句という人間教育」という今回のテーマだが、私はさすがに、俳句を「人間」教育として論じる自信はない。けれども、俳句を教育に取り入れるということなら、それなりにアドバイスはできる。そこで参考になるのは、柳田國男が昭和二十二年に書いた「病める俳人への手紙」である。これは桑原武夫の第二芸術論に対する根源的な批判として、今日でもなおその価値を失っていない。柳田は次のようにいう。

第二と呼ばれると下等のもの、劣つたものといふ感じが伴なひやすいけれども、是は二つの方向を異にした、比べることの実は出来ない道なのです。

「二つの方向」とは何か。あとは誌面の都合で、柳田の言葉を私なりにまとめてみる。
芸術には、鑑賞して楽しむ「道」のほかに、作者が自ら楽しむ「道」がある。この二つの「道」は方向が異なるので、どちらが上かという比べ方はできない。ただし発生の順序では、作者が自ら楽しむ芸術のほうが「兄」である。俳句は、作者が自ら楽しむ芸術である。  
ここで柳田は、「作者が自ら楽しむ」ことを芸術の価値として主張している。「兄」というのは、そのほうが「鑑賞して楽しむ」よりも先に生まれたということだ。桑原の主張する「芸術」は、後から生まれたもので、たかだか近代の価値観でしかない。そしていうまでもなく、「近代」はとうに終わっている。
俳句が学校教育に役立つとすれば、そこで「作者が自ら楽しむ」という「芸術」のあり方を学ぶことだ。これが私なりのアドバイスになる。
「作者が自ら楽しむ」とは、作者がそのまま読者であるということだ。ちなみに桑原は、「俳句のことは自身作句して見なければわからぬ」という水原秋桜子の言葉に対して、そこに「俳句の近代芸術としての命脈を見る」と書いている(前掲書)。しかし俳句は、そもそも「近代芸術」などではない。いうならば「反近代」の文芸である。そのことによって、「近代」が終わった今日もなお「命脈」を保っているのである。
なぜか。それは私たちの心の中に、ひたすら便利さを追求してきた「近代」への抵抗があるからだ。「科学精神」にとって正しくても、納得できない心の内面がある。そして、そうした些細なこだわりは、言葉を費やせば費やすほど、真実から遠ざかってしまう。そのとき、わずか十七音の言葉が五七五によって詩になるという古典的な文芸が、いわば心のオアシスななってくる。
俳句が作れても、社会の役には立たない。だから、社会に役立つ人材を育てるという学校教育のあり方(すなわち近代教育)には、俳句はなじまない。「作者自ら楽しむ」ことの意義は、それが文化の底辺を広げるからだ。文化とは、いわゆる文化人の専門分野ではなく、普通の人たちのものである。

 


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