(巻三十六)この家の行く末話す夕すずみ(木村万里)
5月2日火曜日
晴れ。朝家事は拭き掃除と洗濯に加えてシーツと枕カバーなどを洗濯機が洗った。ベランダに干そうと出してはみたが風が強くてヒラヒラ、パタパタを超えたので断念いたした。トレーナーを天袋に上げ、半ズボンを下ろした。
昼飯前に生協へ行き、ついでにクリーニング屋さんのお休み予定を確めた。
昼飯を喰って、一息入れて、瞑想してから散歩。
クロちゃんを訪ねたが不在。腹のこなれがよく、おやつくらいはいけそうだったので兎に角駅前方向に路地を歩いた。タコ焼屋のあたりで蕎麦屋の大女将とすれ違ったので、久しぶりに「寿々喜」に寄ってみることにした。
「寿々喜」の前には車椅子が停めてあった。老人と介護の人が居るのかと店に入ったら奥の席で老婆が一人天ざるを食していた。つられて天ざるを頼み、酒を一本いただく。御新香が付くがこれがうまいのである。
老婆がそばとつゆを少しこぼして床が汚れた。若女将が直ぐにきて「お履き物は大丈夫ですか?」とティッシュで拭う。なかなか出来ることではないなあ~と思いながらグラスを口に運ぶ。
そうこうしているうちに天ざるが運ばれてきて、もう一本頼む。ゴールデン・ウィークだ。
老婆が食事を終わり、千円札で勘定八百五十円を払い、釣りを受け取る。若女将が時候のことなどお愛想をのべると、老婆が「手を貸してくださいな」と言う。老婆は自力では椅子から立てないようだ。手を借りてよろよろと立ち上がった。その時初めてただ者ではない本物の中途半端ではない老婆であることが分かった。白髪は潤沢にあり櫛が通っている、身体に余分な肉は全くなく、“く”の字の身体の頭はテーブルからそれほど上には出ない。片腕を若女将に預け、片腕で椅子やテーブルを掴みながら表に出て車椅子に収まったようだ。自力で棲みかに戻っていくのだろうが、あの、ひょっとしたら三桁かもしれぬ老婆はすごい。独行だ。当然便所なんかも自力だろう。何か凄いものを見ながらの天ざるで一杯になった。
老婆が去ったあと、ゆるゆるとグラスを傾け御新香を味わい、勘定二千五十円を支払い自力で退出いたす。
二丁目の裏路地を伝って、新道を渡り、亀中裏門を過ぎ、ちょっと都住の裏に廻ってトモちゃんを呼び出してスナックをあげる。まだ用心深い。
図書館で6冊借りた。うち1冊は『書斎のポ・ト・フ』と云う開高健、谷沢永一、向井敏の対談集だった。対談はどんな偉い方々のであっても我が選には入れないので、即返却ポストに入れようかと思ったが、巻末の解説の書き手を確認したら山崎正和氏であった。
それならと6冊全部を持ち帰ろうと思ったが、いつもショルダーバッグに入れている図書用のズタ袋がない。仕方なく剥き出しのまま抱えて帰宅。
どんな本をよんでいるのか曝すほど嫌なことはない。通勤していた若いころ、paperbacksを車中で捲ったがカバーをしっかりかけていた。先輩の係長が、ピシッとスーツで身をかため、髪はかっちりと七三に分けて、お利口そうな顔付きをしておいて、車内で漫画本を開いていたのを思い出した。
願い事-涅槃寂滅、酔死か即死。
あそこまで行けば終わりは楽だろう。が、あそこまで行きたくない。
この家の行く末話す夕すずみ(木村万里)
が今日の句だった。行く末のことは分からない。今の棲みかに住み替えたのも行く末を考えてのことだった。その行く末が七年であったなら、まあ正しい行く末の見極めであったということになろうが、さてこの先、さてこの先となれば、
寒月やさて行く末の丁と半(小沢昭一)
だ。
で、
「芸能人と家族 - 小沢昭一」文春文庫 巻頭随筆1 から
を読み返した。
「芸能人と家族 - 小沢昭一」文春文庫 巻頭随筆1 から
週刊誌で、スケベエ対談をやっていたので、その御相手に、売春の社会学的研究で著書もある、さる大学の先生に御登場をお願いしたら、
「あれは、若い時の研究で、ああいうものをやると、女房子供がいやがるもんですから、もう近頃はとんとその方面はごぶさたです。以前も、テレビの夜の番組で、売春のはなしを依頼されましたが、女房が強く反対するもんで、お断りしました。」
勤続何十年のある老巡査の述懐 - 「私は一生巡査で一向にかまわないんですが、娘が嫁に行く時、ヒラの巡査じゃ肩身がせまかろう。せめて、おやじの肩書に長をつけてやろうと、いやいやながら、この年は勉強して、試験もうけて、巡査部長になりました。おかげで娘の結婚式は、どうやら、かっこうがつきました」
節季候[せきぞろ]という門付[かどづけ]芸があった。暮れになると「せきぞろござれやハァせきぞろめでたい」などと言いながら各戸を廻って銭をもらったものなんだそうだが、やっていたという老人を四国の山の中に訪ねて、口上をやってもらおうと頼んだら、
「もう忘れた」
という。
「どんな感じのものか、ちょっとだけでいいですから」
と、しつこく食い下ったら、
「わしはかまわんが、息子や孫が、よせというもんだから....」
ということだった。役場へ出ている息子さんにしてみれば、いまさら、おやじが昔そんなことをして稼いでいたことを、他人に知られるのは迷惑、ということなのであろう。
宮城県の農家の庭先で、以前女相撲の横綱をはっていた老婆を、やっとのことでつかまえた。女相撲の興行は終戦後まだ残っていたものだが、女相撲です唄う“いっちょな節”を採録したくて頼んだところ、すぐに大きな声で唄ってくれた。
花か蝶々か、蝶々か花か、
エー来てはチラチラ....
途中で歌がプツリと切れて、おばあちゃんは家の中へ入ってしまった。野良から、息子夫婦が帰って来たのである。
似たようなはなしは、われわれの仲間にもある。
演技の鬼といわれる老練のバイプレーヤー、悪を演じたら天下一品だったが、
「娘が大きくなってきたので、テレビや映画で、もう悪役はやりません」
と、ブラウン管にニコニコと笑顔を見せている。大同小異のこんな例は、われわれのまわりに実は一杯ある。
他人のはなしばかりで申しわけないから、自分のはなしをしよう。私の場合は、悪役よりもエロ役。一時はずいぶん演[や]った。
その頃、家族はまいにちイヤな思いをしたらしい。息子は学校の帰り途、女のマタグラに顔をつっこんだ私の映画ポスターの前で、ともだちに笑われた。女房は美容院で、ヒソヒソしのび笑いを後ろからされる。“エロ事師小沢昭一”の見出しの週刊誌がそこにあるからだった。
若き日、あるいは主義主張に支えられて情熱で、あるいは金か名か、とにかく一旗あげたい意気で、見栄も外聞もあらばこそ、死に物狂いで仕事をやるうちは、親も家族もあったものではないが、金もまあまあ、地位も安定となると、放蕩無頼、コンジョウあると覚しき芸人でも、社会への見栄、家族のおもわく、娘がオトモダチに対してはずかしくないようにと、きれいごとの仕事を見つけて、それでけっこう自分も安住の場を得るのである。
いま、そのことのよしあしを、問うのは止そう。
ただ。-
少しまえまでは、芸能にたずさわる人々は一般社会と隔絶されたところにいた。役者、芸人のたぐいは、実際に、カタギさんたちとは離れて一団をなして住むか、または、定住を捨てて放浪のくらしの中にいた。一般人との交流はなく、見栄も外聞もなく稼いで、それでよかったのである。ムスコもムスメも、おじいもおばあも、みんな一緒に、閉塞された中にうごめいていたからである。しかし、芸能の花はそういう土壌に咲いた。
いま芸能者は、完全に市民生活の中に入り込んでしまった。恐らくもう昔のようには戻るまい。さて、そうなった時、一般人と同質の生活から、一体、どんな芸能が生れるのだろうか。