(巻三十六)虹立てり急に食ひたき海のもの(神尾季羊)
4月18日火曜日
曇り。細君は月参りの如く通帳の記帳に出かけた。お金も一つの信心だからお詣りは欠かせまい。で、ふと、「お参り」と「お詣り」のどちらがよろしいかが気に掛かりネットを捲ってみた。お告げでは、お参りは仏さまでお詣りは神さまとのことだ。信仰の対象が仏さまではないから、お詣りとすべきだろう。
お金については、養老孟司氏と邱永漢氏のエッセイ二本で理屈はおぼろ気ながら理解した。
「金とはなにか - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から
「金の生い立ち - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から
しかし、ストンと落ちたのは最近、
「新人の特質 - 養老孟司」ちくま学芸文庫養老孟司の人間科学講義 から
を読んでからだ。「信号」とか「シンボル」という意味がやっと解けた。つまりは制度だ。制度を実施するための小道具だ。
制度であれば、雇用制度、福祉制度、年金制度、健康保険制度などと同じで制度が変われば、例えば年金の支給開始年齢のように、内容がが変化し、場合によっては消滅してしまうもので、仏陀の云う諸行無常に他ならないものだとの理解に至った。虚しい。
さりながら、現世、その日その日を凌いで行かなければならぬ身には、
「人間萬事[抜書] - 山口瞳」日本の名随筆別巻22名言から
の仰ることに共感するところ大である。
細君外出につき、パック赤飯とカップ麺(担々麺)で昼餉を摂っているところに細君が崎陽軒の春弁当や牛コマを買って帰宅。通帳を打ち出して気が大きくなったのなら、それはそれで悦ばしいことた。
余命とは預金残高ちちろ鳴く(野副豊)
預金の目減りも著しいが、日々余命も減っている。余命は短いに越したことはない。
昼飯喰って、怒られないようにしっかりと一息入れて、座椅子に寝ころがる。
寝込んで、『富嶽百景異聞』とでも題しようかという猥褻小説の構想に耽ってみた。
AVにした場合のキャストは、
おかみさん-五十嵐忍
その娘-くくるぎみかん
甲府の母堂-芦屋静香
その娘-大場ゆい
遊女-酒井ちなみ、柳田やよい、
花嫁-瀬名ジュン
東京の若い知的な女-松下紗栄子、佐々木あき
てなところか。
2時半過ぎに起き上がり散歩に出かけた。先ずは昨日逢えたクロちゃんを訪ねた。今日も居てくれて相手をしてくれた。一撮。そこから稲荷のコンちゃんを訪ねた。腹が空いていたようで近寄っては来たがクロちゃんのような親しさがない。単に餌でつながっているキャバクラ嬢のような猫だからこちらもそのつもりだ。
稲荷から里村へ向かう途中で高橋さんとスレ違う。お互い手をあげて挨拶いたす。
里村には3時2分に入ったが、すでに先客1名、15分にはコの字の3辺が埋まり15人満席となる。一月二月のこの時間は客が一人か二人だったのだが、随分とはやり出したものだ。私はノンアルの方が何かと体に合うようになってきた。方向転換するか。
帰りに図書館に寄り、予約していた『三千円の使いかた - 原田ひ香(中公文庫)』を借りて帰宅いたす。
この文庫は去年の8月25日に予約していたもので100人待ちくらいの本だ。本体七百円だが、葛飾区の図書館は22冊もこの本を揃えて区民の要望に応えてきたようである。まだ、読んでいないが、随筆ではなく短編のようだ。
図書館の前の都住でトモちゃんを呼び、スナックを振る舞う。まだ斜に構えているが、気立てはコンちゃんより良さそうだ。
英聴は、昨日に引続き、
https://www.bbc.co.uk/programmes/b006qnx3/episodes/player
を聴く。肥満の話だ。なぜ南太平洋の人に肥満が多いのか、とか、日本人の食生活の激変をみれば食文化の変革は可能だとか、余計なお世話の話も出てくる。
願い事-涅槃寂滅、酔死が即死。
長寿は寿ではない。長いだけで何もいいことはない。
今日は四作読み直したが、
「人間萬事[抜書] - 山口瞳」日本の名随筆別巻22名言から
を今日の再読といたそう。
のどけさの先きに果てある命かな(山本けんえい)
「人間萬事[抜書] - 山口瞳」日本の名随筆別巻22名言から
むかし、小学校の六年生のとき、家で書初めをやらされた。戦前の家庭では、カルタを取ったり、句会を開いたりして、家族だけで遊ぶということが行われた。その他に、いろいろな室内遊戯があった。なかには、父が花柳界で仕込んできた、子供にはちょっとどうかと思われる遊びもあった。書初めは儀式であり遊びでもあった。
「人間萬事」と私は書いた。それに「金之世之中」と続けた。
どこでその言葉を知ったのかということを憶えていない。家にあった明治大正文学全集をめくっていて見つけたのかもしれない。深く考えることをしないで、ふらふらした気持で書いてしまった。私としては諧謔のつもりだった。当時から、私は、父も母も、ユーモアのセンスはなかなかのものだと思っていた。
私の書いたものを見て、母は、まあ、と言った。厭な子だわねえ.....。母の声音には憎々しいところがあった。私は驚いて父のほうを見た。意外にも、父の顔にも怒気があふれていて赤い顔になっていた。困ったことになった。私は散々に叱られた。殴られるようなことはなかったけれど、いまにも殴られるのではないかと思い、覚悟をきめていなければなかなかった。思いもかけないことになった。ひとつには、楽しかるべき書初めの会が私一人のために台無しになってしまったからだろう。
「人間萬事金之世之中」と書いたのは諧謔のつもりだったけれど、何割方かは本当のことだと思っていた。いや、そうではない。私は、それはそっくり真実だと思っていた。真実だから滑稽なのだと解釈していた。怒られる理由がわからない。いまでも、わからない。その、わからないということが、私の、変っているところだろう。
私は、父と母から「ゲジゲジ」と言われ「冷血動物」と言われた。だから、同胞もそう言った。出入りの芸人たちもそう言った。
ただし、芸人たちが、あんたゲジゲジねえと言うときは、いくぶんかはお世辞と感嘆が含まれていた。それは私と麻雀を打って勝てないからだった。私は、小学校の五年生のときから、家に来る大人たちと、千点二円(当時としてはかなりの額になる)の麻雀を打っていた。私の麻雀は、徹底してセコイ麻雀だった。私は、いまにいたるまで、四暗刻のように自然に出来てしまうものは別にして役満貫を和了した記憶がない。速度だけを重んじていた。いつでも、欲を出すと負けると信じていた。父の麻雀は、文字通り、下手の横好きだった。私は、芸人たちが、お世辞を言い言い、家から金を持ってゆくことに我慢ができなかった。それで、自然に、こすからい麻雀になった。また、私のゲジゲジぶりは、麻雀だけのことではなかった。
私は、一度の箱根旅行と、甲子園の中等野球大会見物以外に家族と一緒に旅行したことはない。いつでも家にいた。いつでも、いま、それどころではないと思い、金がモッタイナイと思っていた。だから、みんなで料理屋へ行くときも、活動写真や寄席へ行くときも、私だけ不機嫌で、よく父母に叱られた。寄席は十番倶楽部が近かったが、私は絶対に笑わない子供であって、そのことが楽屋の話題になったことがあるそうだ。湘南の避暑地へ行っても、私は憂鬱な顔をしていたし、実際に、海水浴や登山なんかは危険で鬱陶しいだけのものだった。
私は弁当のお菜[かず]に文句を言わない子供だった。その点では行儀のいい子供だった。他の四人の同胞は母に注文をつけたり、マズイと言ったり、好き嫌いを主張したりした。私には、それが贅沢であり我儘であるとしか思えなかった。それよりも、そのことが理解できなかった。喰いものなんか、なんだっていいと思っていた。
もちろん、衣類にも文句を言わない。文句を言わないばかりでなく、叮嚀に大事に扱った。兄や弟が一年で駄目にしてしまう洋服を、私は二年でも三年でも、寸法があわなくなるまで着ることができた。何につけても、私は、親にネダルということをしなかった。そういうあたりもゲジゲジであり、可愛い気がなかった。