「道元の洗面 - 井上ひさし」ちくま文庫井上ひさしベスト・エッセイ続ひと・ヒト・人 から
わたしが宗教と遭遇したのは中学三年の秋であり、その宗教はカトリックだった。その出合いはこちらから求めたものではなく、気が付いたときすでにわたしはカトリック者たちの真っ只中にいたのである。つまり、わたしは中学三年の秋、カトリックの養護施設に収容されたのだった。
一年がかりで、わたしは五百項目以上に及ぶ公教要理[カテキズム]を暗誦し、毎朝六時に捧げられるミサに出席し、朝夕ロザリオを一環ずつ唱えやがて洗礼を受けたが、べつに、三位一体の玄義を理解し、天地の創造主である天主の存在や、キリストの行なった数多くの奇蹟や、教会のもろもろの秘蹟を信じたからではなかった。
わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉をすこしでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服[スータン]を新調するようにと送られてくる羅紗[らしや]の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。
べつの言い方をすれば、わたしは天主の存在を信ずる師父たちを信じたのであり、キリストを信ずる襤衣[らんい]の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだった。
三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを掴み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合せたり、甲論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。
数年前、ある教育番組で、わたしは道元の一生を十五分に要約する仕事をした。そのとき『正法眼蔵』を読んだが、まったく一行も理解できなかった。いったい、これが日本語なのであれうか。
なぜ道元はかくも難解の語を高山ほども積みあげて、彼より七百余年も後に生れて来たわたしの如き一放送ライターを悩ますのであるか。わたしはにわかにこの日本曹洞宗の始祖に興味を抱きはじめ、道元について書かれた本を片っぱしから読破したが、驚いたことに、道元解説書もおしなべて難解を極め、すこしもわからないのだった。
そこでわたしはこの難攻不落の城を遠まきにして、じわじわと攻め立てることにした。道元を、彼の『正法眼蔵』を、なまじ理解しようとするからさんざんな目にあうのだ。歴史書を読み抜き、禅の入門書を学習して基礎知識を貯え、じっと辛抱して待てば、自然に、道元という人が浮び上ってくるにちがいない、と考えた。
やがて、思惑どおり道元がおぼろげに姿を現わしはじめたが、その道元は奇態なことに、あの外国の師父たちとよく似ていた。道元とあの師父たちはともにひたむきさの双生児のように、わたしには思えた。宗教が政治とかかわることを異常に恐れているところも酷似していた(あの師父たちのひとりは、市内の養護施設の集まりの長に任命されたが、そんなささやかな組織の長になることすら拒否した。只管打坐[しかんたざ]が道元の唯一のよりどころとすれば、あの師父たちのよりどころは只管打愛であった)。大都会の聖職者たちは学問をする宗教者、あるいは布教をする宗教者のように見受けられたが、あの師父たちは生活する宗教者、一挙一動が愛の実践だったように思われる。
これはつまるところ、毎日の洗面さえも、法界を洗うことであり、仏祖の大道を洗うことであるとした道元の生活即仏道と同じことではあるまいか。道元への共感、そしてある懐かしさを覚えたのはこのときだった。
この戯曲「道元の冒険」における道元が、道元研究家の書における道元と較べて、まったく偉そうでないのは、わたしたちが寝食を共にしながら、その偉大さと同時に、同じ人間として、更にいうなら、同じ男として、さまざまの弱点や卑小さを見せ、それを克服しようとして血みどろになって闘っていたわたしたちの師父たちの姿と二重写しになっているからだろう。
あの師父たちの丹精した一枚の菜っ葉は聖書とキリストと教会にまさり、道元のある朝の洗面は古仏の正法に優に匹敵する。宗教は人のことであり、どこかによき人がすくなくともひとりいるなら、今、人間の見ている長い悪夢もやがて醒めることがあるかもしれないと、わたしはまだ宗教とどこかで辛うじてつながっているようだ。