(巻三十五)敗因を考えている夜長かな(宮川一樹)
12月18日日曜日
冬型の晴れ。朝家事は洗濯、窓拭き、毛布・マット干し。生協に出かけて米2キロほかを買う。往きに団地のトイちゃんに会い一袋。
俳壇が届くが、書き留めたくなる句はなし。
路地裏といへど銀座のおでん酒(上西左大信)
という句を盗んで、
おでん酒ここも銀座といふ場末
と捻ってみた。
昼飯食って、一息入れて、散歩。
図書館に寄り、2冊返して4冊借りた。9冊届いていたが、取り敢えず4冊借りた。そこから稲荷のコンちゃんへ回り一袋、都住のクロちゃんに3袋。クロちゃんは冷たい風を避けて段ボールのお家の中に居たが、呼んだら飛び出してきた。
帰りに生協に寄り猫のスナックを3袋買い、私のおやつに餡パンとジャムパンも買った。
願い事-涅槃寂滅です。静かにアッサリと終わりたいのでよろしくお願いいたします。
"We are dying from overthinking. We are slowly killing ourselves by thinking about everything. Think. Think. Think. You can never trust the human mind anyway. It's a death trap." ― Anthony Hopkins
と考え過ぎが戒められていますが、心臓が鼓動するように脳は考えてしまうそうです。脳が活動しなくなれば考えなくなるのでしょうが?ですから考えてしまうことをコントロールするしかないのでしょう。
なるべく死んで無くなってしまうことを考えるようにしていますが、それが一番心に静けさをもたらしてくれます。
昨日は、
「三十人の「きせきの人」たち - 矢吹清人」03年版ベスト・エッセイ集 から
を読みましたが、その中に
《ひとり暮らしのEさん。はっきりとした尊厳死希望で、くりかえし「延命治療」を拒否すると言っていた方である。腎機能が悪化したが、透析を希望せず、
「このままでは尿毒症になって昏睡状態になります」
と説明したら、
「あーよかった」
と笑い、再度、人工呼吸や電気ショックを絶対にやらないでほしいと念を押して、間もなく昏睡となり亡くなった。》
という一節があり、やはりこれだ‼これが私の理想の逝き方だと確信に至ったのです。
冷し酒五臓の一つ病んでをり(石井信生)
腎不全での死を描いた作品は、
「猫の死について - 村上春樹」新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から
と
「ゆず湯(冒頭抜書) - 岡本綺堂」旺文社文庫 綺堂むかし語り から
とを筆写してあり、読み返して腎不全での死を想像してきましたが、この一作でさらにこれで逝くんだという希望が湧いてきました。これなら孤独死でも苦しまなくて済みそうだとその死に方に考えを廻らせている昨日、今日です。
孤独死の窓の汚れの余寒かな(無京水彦)
「猫の死について - 村上春樹」新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から
先日、飼っていた猫が死んでしまった。この猫は村上龍氏のところから来たアビシニアンで、名前は「きりん」といった。龍のところから来たので「麒麟」という名をつけたわけである。ビールとは関係ない。
年齢は四歳で、人間でいえばまだ二十代後半か三十歳くらいだから、早死にである。この猫は膀胱に結石がたまりやすい体質で、以前にも手術をしたことがあり、食事はいつもダイエット・キャットフード(というものがこの広い世界には存在するのだ)を与えていたのだが、結局膀胱をこじらせたのが命とりになった。業者に火葬してもらい、そのお骨を小さな壺に入れて、神棚においてある。僕が今住んでいる家は古い日本家屋で神棚がついているから、こういうときはとても便利である。新しい2DKのマンションなんかだと猫のお骨を置く場所を見つけるのが大変そうである。ちょっと冷蔵庫の上に置いておくというわけにもいかないしね。
僕のところにはこの「きりん」の他にもう一匹十一歳になる雌のシャム猫がいて、名を「みゅーず」という。この名前は名作少女漫画『ガラスの城』の登場人物からとった。その前には「ブチ」と「サングラス」という『明日に向って撃て!』のコンビから名をとった二匹の雄猫がいた。いっぱい猫を飼うといちいち名前を考えるのが面倒なので、だいたいはきわめてイージーなネーミングをする。一時は「しまねこ」という名のしま猫を飼っていたし、「みけ」という名の三毛猫がいたこともある。スコティッシュ・フォルドという種類の猫を飼ったときは「スコッティー」という名前にした。こうなると当然派生的に推測できることだが、「くろ」という名前の黒猫が寄宿していたこともある。
この十五年間に我が家に去来した猫たちが辿ったそれぞれの運命を表にしてみると、
A(死んだ猫)
①きりん②ブッチ③サングラス④しまねこ⑤スコッティ
B(人にあげた猫)
①みけ②ピーター
C(自然にいなくなった猫)
①くろ②とびまる
D(現在残っている猫)
①みゅーず
ということになる。考えてみれば家の中に一匹も猫がいなかった時期はこの十五年間にほんの二カ月ほどしかないのである。
これはまああたりまえのことだけれど、猫にもいろんな性格があって、一匹一匹それぞれ考え方も違うし、行動様式も違う。今飼っているシャム猫は僕に手を握ってもらっていないとお産ができないという実に変わった性格の猫である。この猫は陣痛が始まるとすぐに僕の膝にとんできて「よっこらしょ」という感じで座椅子にもたれるような姿勢で座りこむ。僕がその両手をしっかりと握ってやると、やがて一匹また一匹と子猫が生まれ出てくるのである。猫のお産というのは見ているとなかなか楽しいものです。
「きりん」はどういうわけかセロファン紙を丸めるときのくしゃくしゃという音が大好きで、誰かが煙草の空箱を潰したりするとどからともなく脱兎のごとくとんできて、ごみ箱からその箱をひっぱりだして、十五分くらいは一人で遊んでいた。いったいどのような経緯を経てこのような傾向になり癖なり嗜好なりが一匹の猫の中に形成されていくのかはまったくの謎である。
この猫は元気がよくて固太りした食欲旺盛な雄猫で - このへんの描写は村上龍氏のパーソナリティとは無関係 - 性格も開放的で、うちに来るお客にはなかなか受けが良かった。膀胱の具合が悪くなるといくぶん元気がなくなりはしたが、前日まではとてもそのまま死んだりするようには見えなかった。近所の獣医さんのところにつれていってたまった尿を抜いてもらい、結石を溶かす薬を飲ませたのだが、一夜明けると台所の床にうずくまって目をぱっちりと開いたまま冷たくなっていた。猫というのはいつも実にあっさりと死んでしまうものである。あまりにも死に顔がきれいだったので、日なたにそのまま置いておけば解凍されて生き返るんじゃないかという気がしたほどだった。
午後にペット専門の埋葬業者の人がライトバンで猫をひきとりにきた。映画『お葬式』に出てくるようなきちんとしたなりの人で、いちおうお悔やみを言うわけだが、これは人間相手の悔やみの科白を適当に簡略化したものと考えていただければ良い。それから料金の話になる。火葬骨壺のコースは壺代が入るので二万三千円である。ライトバンの後部荷台にはプラスチックの衣装ケースに入れられたドイツ・シェパードの姿も見える。たぶん「きりん」はそのシェパードと一緒に焼かれることになるのだろう。
「きりん」がそのライトバンで運び去られてしまうと、家の中が急にがらんとしたような気がして、僕もつれあいもあとに残された猫もどうも落ちつかなくなってしまった。家族というのは - たとえそれが猫であっても - それぞれにバランスをとりながら生きているものであって、その一角が欠けるとしばらくは微妙に調子が狂ってしまうものなのである。家にいても仕事にとりかかれそうもないので、横浜にでも遊びに行こうかとしょぼしょぼと降る雨の中を駅まで歩いたのだが、それもなんとなく億劫になって途中で帰ってきてしまった。
*今は「みゅーず」と「コロッケ」という猫を飼っています。「マイケル」とか「小鉄」とかっていう名前の猫は全国にけっこう沢山いるんだろうな。
「ゆず湯(冒頭抜書) - 岡本綺堂」旺文社文庫 綺堂むかし語り から
本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春が近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが湿[ぬ]れ手拭で額を拭きながら出て来た。
「旦那、徳がとうとう死にましたよ。」
「徳さん......。左官屋の徳さんが......。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものは無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、がらす戸越しに白く見えた。
着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲って、輪切りの柚があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる冬の日に照らされて、陽炎のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実[このみ]の強い匂いが籠っているのも快かった。わたしは好い心持ちになって先ずからだを湿[しめ]していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」
私も挨拶した。
彼は近所の山口という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊いた。
「ええ、けさ七時頃に......。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか、気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
鸚鵡返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船のそばへたくさんの小桶をならべて、真っ赤に茹[ゆで]られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸っていた。表には師走の町らしい人の足音が忙しそうにきこえた。冬至の獅子舞いの囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持ちになって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
(中略)
こんなことをそれからそれへと手繰[たぐ]り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのに驚いて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂にはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのようにしんだんですね。」
「行き倒れ......。」と、私は又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変わらす自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで今朝も家を出て、薬罐をさげてよろよろ歩いてくると、床屋の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に寄り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽[くず]れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店にかかえ込んで、それから私の家[うち]へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にも好い心持ちに浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。