(巻三十四) てのひらにある運勢と花の種(青木澄江)
9月15日木曜日
細君は3回目から5ヶ月が経ち、そろそろ射つつもりでいたのだが、迷いに迷って遂に新ワクチンが始まるまで待つことに決めたらしい。
家事多発。掃除機掛け、洗濯、買い物。
昼飯喰って、昼寝して、散歩。
煮込みが喰いたくなり、曳舟川を上って東部地域病院を過ぎ、サミットのところから北口商店街に入ってみた。煮込みの喰えそうな店は4時前にはまだ開いておらず。モツ吟はやっていたが、モツ吟よりは銀座の串焼本舗の方が旨いのでそちらで一杯致した。
帰りにサンちゃんとフジちゃんに遊んで貰う。サンちゃんはかなり腹が空いていたようでネダルネダル!
昨日からの続きで、
「詩の翻訳について(抜書) - 萩原朔太郎」日本の名随筆別巻45翻訳 から
を読んでいたら、
《「花の雲鐘は上野か浅草か」といふ句を、かつて昔或る人が次のやうに英訳した。
The clouds of flowers
Where is the Bells from?
Ueno or Asakusa.
西洋人がこれを読んで「葬式の詩か?」と反問した。奇妙なので聞いてみると、成程もつともの次第であつた。即ち「花」といふ言葉は、日本人の読者にとつて、直ちに桜花を連想させるのに、西洋人の読者にとつては、ダリアや、チューリップや、シネラリアを連想させる。そこでclouds of flowersは、さうした西洋草花の群生してゐる花壇か、もしくは花輪や花束の集団をイメーヂさせる。また「鐘」といふ語は、日本人にとつては仏教寺院の幽玄な梵鐘を連想させるのに、西洋人にとつては耶蘇教寺院の賑やかな諧音的ベルを連想させる。そこで今、この訳詩を読んだ西洋人の心象には、耶蘇教寺院のベルが鳴つている町の通りを、美しい花輪や花束の群が、雲のやうに行列して行く光景、即ち葬式のイメーヂが浮んだのである。》
というお話に出合った。
願い事-瞑目。
逝くまでを俳句と少しの冷酒と(寺嶋龍)