(巻三十三)小利口な世にダボと言う鯊を釣る(高尾秀四郎)
4月18日月曜日
はっきりしない天気の今日の始まり。ミカンの鉢植えに水を遣り蕾を眺めた。蕾の数だけ実がついてしまうことはなかろうが、いずれ実が付けば、いずれ間引きせねばならぬことになるな。
https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2020/08/25/085325
中今の蕾、咲いてくる花を、そのまま愛でていればよいものをこういう発想をしてしまうことが生きていることを詰まらなく、辛いものにするのだ。
https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2020/12/18/082112
午後の散歩は出かける仕度はしたが日照雨(そばえ)が降っていたので取り止めた。
手を出して日照雨たしかむ鉦叩(古賀勇理央)
今日から、
「なごやかなる修羅場(抜書) - 高島俊男」
を読み始めた。
《この本のおもしろさは(巻き終ったあとの「おさらい会の反省」ではあるけれどめ)歌仙の興行が進んでゆく過程を見せてくれているところにある。しかもここには、蕉翁にくらべればゴミみたいな器ではあるにせよ、鼻っ柱だけはめっぽう強いアンツグ宗匠と(いそいでことわるがこれはアンツグを☆する意味ではない。蕉翁と比較すればすべての宗匠はゴミみたいなものだ、の意である)、丸谷、大岡という、これももとより去来、凡兆ほどの手だれではないがそれなりに才気もあれば腕も立つ連衆がそろっていて、どうやら昭和な末世としてはこれ以上のものを望むのが無理、という程度の試合を見せてくれるのである。おもしろからぬはずがない。》
この本とは、「石川淳・丸谷才一・大岡信・安東次男『歌仙』(一九八一年青土社)」のことと冒頭にある。
俳諧については、
https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2020/08/22/084353
でシビアだなあという認識はもっているが、才気のひけらかし合いだから『なごやかなる修羅場』なのだろう。
しかし、全編を通じて石川淳のことは完全に無視している。何故かは知らぬが怖い怖い。
願い事-生死直結で知らぬ間に叶えてください。コワクナイ、コワクナイ。
人間に限らず生物と云うのは微生物まで蔓延るためには何でもする怖い厭なものだ。あ~嫌だ嫌だ!自分ではどうにも出来なかったがこんな修羅場に出て来るんじゃなかった。
修羅をなす餌場に寄らず離れ鴨(西沢美恵)