11月29日金曜日
目覚ましの解除を忘れていたので今朝も鳴りました。OFFにいたしました。
朝、ミカンちゃんに水を遣りましたが、ミカンちゃんは鳥さんにつつかれてご覧のとおりです。でもそのための果実ですから運命でごないますな。
運命と片付けられてちやんちやんこ(杉山文子)
*この句は連続登場となりました。
午前は家事手伝い。午後は図書館で角川俳句を閲覧いたしました。
収集した句は整理して明日ご紹介いたしたい。
いつまで続くか分からない失業者の身となりました。細君からの風当たりも厳しくなったような気がします。細君の言い分は以下のようなことでしょう。
主婦の座に定年欲しき十二月(塙きく)
家事手伝いが増えるのはよいのですが、テレビのニュースを一緒に見ろと言うのは嫌だ!そんなことしたらあたしゃ寝られなくなっちゃいます。
「昔は、ドラマだって一緒に見てくれたのに」
冗談じゃない!
それに、そんなことを言いながら同じラジオ番組を聴かれるのは嫌がるではないか。
それに、昼飯と夕飯は一緒に台所に立って無駄話しながら作っているじゃないか。洗い物も一緒にやってるじゃないか。
気がつけば妻も縮んだ寒厨(米澤たもつ)
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One paragraph essay clubに参加申し込みがありました。無闇矢鱈にグループに参加している人ではないようでしたので承認いたした。これで十人です。
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「人は死んだらどこへいくのか - 五木寛之」幻冬舎文庫 大河の一滴 から
を読みました。『大河の一滴』は苦しい時代の思い出とその経験に呪縛された先行き不安の吐露の随筆集との印象です。
五木氏とあたしじゃ月とすっぽんですが、老人性芥川症はユービキュタスです。あの山田風太郎氏にさえもはっきりとしたその兆候が見えます。
『 人は死んだらどこへいくのか』は別に極楽や地獄のことを書いているわけではありませんで、親鸞と念仏についてです。
君地獄われ極楽へ青あらし(高山れおな)
《 「南無阿弥陀仏」と念ずることで十分に親鸞の真意は伝わっている。親鸞が見つめたのは仏像や仏画ではなく、じつは目には見えない無量・無限の、科学的合理的世界と対立する世界=浄土であったといっていい。そして、世間でいう地獄・極楽というのは、その地点への通過点であると私は考えているのだ。
私は心のなかで合掌するとき、ごく自然に「ナーム・アミータ」とつぶやいている。ブッディストと自称するのもはばかる我流の親鸞ファンとしては、そのほうがなんとなく自分の気持ちにしっくりくるように感じられるからである。
念仏などという古くさいものが嫌いならば、それをいちいちとなえなくてもいい。「ありがとうございます」でも、「スパシーボ」でも、「グラーチェ」でもかまわない。このひどい世の中で、こうしてなんとか生きているだけでもありがたいと、心のなかで手を合わせて感謝すればいいのだ。》
南無南無と他力本願生身魂(谷下一玄)
地獄については、水木しげる氏のご説をいくつかご紹介しておりますので“水木しげる”で検索してみて下さい。