(巻二十九)電脳の反乱近しガマ(漢字)が鳴く(畑山弘)
5月30日日曜日
朝起きてくると何か一つは体調不良を訴えるが、今朝は便秘を訴えていた。卵サンドを食えば下痢をするし、食わなければ便秘らしい。
美食より快便うれし老の秋(佐藤其土)
午前中は細君の洗濯手伝い、飯炊き、昼食の仕度、毛布干し、くらいだったのでやや余裕があった。
午後は図書館➡リハビリ病院➡生協といういつものコースを歩いた。以前はタバコを吸う目的で散歩に出たので少し離れたところにあった喫煙場がコースの要所であった。故に四千歩くらい歩いていたが、タバコを止めれば喫煙場に行くこともないので歩数が伸びない。
本日は二千六百歩で階段は3回でした。
夕食は鶏肉の醤油焼きだが、ジャガイモの茹でたものとインゲンの茹でたものを添えた。ジャガイモの皮剥き、便秘対策のリンゴの皮剥きと皮剥きの多い夕暮れ時であった。
願い事-叶えてください。吾輩も太平を得たい。
ワガハイノカイミヨウモナシススキカナ(高浜虚子)
余裕があったので、
「吾輩は猫である(巻末抜書) - 夏目漱石」ちくま文庫夏目漱石全集1 から
をコチコチ読了した。
そして以下の猫の最期が「キューブラー・ロスの五段階」つまり、①拒絶②怒り③取り引き④抑うつ⑤容認、の五段階(死に至るまでの心の動き)を経ているよう思われた。
《 こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうがおどろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、-やられた。どうやられたのか考える間[ま]がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。
我に帰ったときは水の上に浮いている、苦しいから爪でもって矢鱈に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから後足で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応えがあった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと見廻わすと、吾輩は大きな甕[かめ]の中に落ちている。この甕は夏まで水葵[みずあおい]と称する水草が茂っていたがその後鳥の勘公が来て葵を食い尽した上に行水を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は大分[だいぶ]減って烏が見えないなと先刻[さっき]思ったが、吾輩自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。
水から縁までは四寸余[よ]もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれは苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は焦[あせ]るが、足はさほど利[き]かなくなる。ついにはもぐるために甕を掻くのか掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責[かしやく]に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面[おもて]にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりよいがなければいくらも掻[が]いても、あせっても、百年の間身を粉[こ]にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹[かか]っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりでご免蒙[こうめ]るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然としない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否[いな]楽そのものすら感じ得ない。日月[じつげつ]を切り落し、天地を粉韲[ふんせい]して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られね。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。》
参考随筆
「キューブラー・ロスの五段階 - 水野肇」