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「月ふたつ - 永井路子」日曜日の随想2007 から

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「月ふたつ - 永井路子」日曜日の随想2007 から

炬燵にしがみついて原稿を書いていた。半世紀以上も前の三月の夜はひどく寒かった。
書いていたのは初めての小説、懸賞への応募である。もの書きになることなど、すっぱり思いすてていたのに突然の変心だった。少女のころは、小説を書きたいなどと夢見たものだが、女子大に入って古典文学の凄さ、奥深さに卒倒して、
「これはもうダメ」
とあっさり退却したはずなのに.....
それがどうして?理由は簡単、「百万円懸賞小説大募集」の広告に目が眩んだのだ。戦後まもなくの新婚生活は苦しく、出版社に勤めていた私の月給は六千円足らず。
「百万円?まあ私の月給の百数十か月分」
これは早とちりで、百万円は懸賞金の総額、ジャンル別などいろいろ区分されていることを後で知ったとは、なんという粗忽さ。
これでは到底入選はおぼつかないはずなのに、思いがけず歴史部門の二席に入って十万円いただいた。邪[よこしま]な動機や粗忽さも、ときに幸運を恵んでくれるものらしい。
取りあげたのは平安朝中期の三条天皇。「百人一首」の中の
心にもあらでうき世にながらへばこひしかるべき夜半の月かな
の作者である。
悲痛な歌だ。天皇は時の権力者藤原道長との仲がうまくいかず、結局退位に追いこまれるのだが、そのときすでに失明していた。天皇には月が見えない。だからこそ「こひしかるべき」月なのである。
女子大のころ読んだ『大鏡』や『栄花物語』に加えて、当時の有力貴族小野宮[おののみや](藤原)実資[さねすけ]の日記『小右記[しようゆうき]』を利用した。実資には自分の小野宮流こそ藤原氏の本家だという意識があり、当時権力を独占していた九条流道長への強い反感を抱いていた。彼の日記のあちこちに道長たちへの批判が記されている。中でも道長三条天皇への意地悪は逐一書きこまれていてこれがなかなか面白いのである。
天皇を絶対視する戦前の風潮がまだ尾をひいていたそのころ、敗北する王者の存在が珍しく、それも受賞の理由の一つになったのかもしれない。
なんとも未熟な作だったが、これを書いたことで私は史料を読みくらべる楽しさを知った。書き手の立場、書かれた時点などの差が全く違った見方を生む。それを歴史小説にどう使うか。しかし、これは出発点に立ったまでのこと、直木賞を受けるのは十余年先のことだ。

受賞後いろいろの時代を手がけたが、私の原点はやはり平安期-と思っていたら、チャンスがやってきた。平安初期から院政直前まで、何編かの長編で、私なりに平安期を語りつくしたいという思いがある。その中の一編は藤原道長を描いたものだが、史料を読みくらべていくと、これまでとは違う道長像が浮かびあがってきた。そうなると、彼の有名な
この世をばわが世とぞ思ふ望月のか[難漢字]けたることもなしと思へば
も、別の解釈をせざるを得なくなる。哀れな三条帝の歌に比べて、なんという傲岸不遜[ごうがんふそん]-といわれているが、じつはここに例の意地悪実資卿がからんでくるのだ。
道長は三人の娘をそれぞれ天皇のきさきとして入内させ(それが権力を握る必須の条件だった)、喜びの絶頂にあった。
-やっとここまで来たな。
いささか自祝の思いをこめて作った歌を、宴の席で実資に見せて返歌を求めたのにはわけがあった。ところが実資は逆手に出た。
「こんなすばらしい歌へお返しはできません。さあ、御一同、名歌の御唱和を」
一同は大合唱。おめでたムードは盛りあがったが、これは実資の「返歌などするものか」という肩すかし、「褒め殺し」なのである。実資の返歌を褒めるつもりの道長の作戦は、みごとに裏をかかれた。しかも歌そのものは道長の日記にも『栄花物語』にも出てこない。書いてあるのは『小右記』だけなのに、なぜか後世にひろまってしまった。
当時の歌は、じつは政争の道具なのだ。同じく華麗な屏風絵も......。みとれていては、平安朝はわからない。現代に似て、殺しこそなかったが、平安期はすさまじい相剋[そうこく]の世界なのである。
その中を道長は危うくバランスを保ちながら切りぬけていく。偉人、英雄でもない普通サイズの彼の思案は奇策ではなかったが、これが不思議に効果を発揮する。一つは敵に手をさしのべる(退位後の三条院には親切だった)、もう一つは囲い込み(実資に息子たちの指導を頼み、彼を骨抜きにしてしまった)。案外これこそ政治の妙諦[みようてい]だったのかも......
彼は当時流行だった金峯山詣[きんぷせんもうで]も行っている。自筆の法華経ほかを豪華な金銅製の経筒に入れ、これを地に埋めた。後に発掘され、日本最古の経筒として国宝になっている。しかし地下の道長は慌てて叫んでいるに違いない。
「いかん、いかん。これは五十六億七千万年後に弥勒さまがこの世にお出ましのときに、ここから湧き出ることになっているのだぞ」
ともあれ発掘のおかげで我々は経筒を見ることができる。埋経されたのは寛弘四(一〇〇七)年。ちょうど一千年目を記念して、京都国立博物館では四月二十四日から大規模な特別展「藤原道長」を開催するという。興味ある多くの陳列品の中から、道長のどんな声が聞こえてくるか、楽しみである。

 


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