(巻二十八)何もかも捨てると言へど捨て去れぬものありてこそ人のなさけか(森川町子)
2月14日日曜日
今日の歌は捨てることを詠んでいるが、大体のところは捨て終わっている。私の部屋にあるものだけなら処分にそうは金も掛かるまい。
震度4ということだが、取りあえず部屋の内は平穏のようである。地震のせいではないのだろうが眠度はあまり宜しくなかった。死んだように眠り、そのまま瞑目するというのが願いだ。
朝家事は洗濯をした。細君は生協に出かけて、四割引の黒豚を買ってきて喜んでいる。
朝日俳壇:
久しぶりに東金夢明氏の句を拝読いたしました。
寒鮒を釣ってしずかに放ちけり(東金夢明)
書き留めたくなる句はなし。
散歩:
コンビニで珈琲を喫し、図書館の書架を廻り、生協で賞味期限が18日以降の食パンを買って帰れという命を充足した。
本日は三千六百歩で階段は2回でした。
読書:
「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から
を読んだ。
《そして、このやうに考へたとき、われわれは、消費における自己顕示がひとつの病的な徴候にほかならず、自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現であることを理解することができる。要するに、それは、消費する自我が他人の賛同の眼を求めながら、それを手に入れたといふ自信を持つことができず、不安のあまり、不自然に身ぶりを大きくしてゐる姿にほかならない。そのとき、自我が探してゐるのは、身近にある具体的な他人の表情であり、小さな目配せにも敏感に答へてくれる他人の眼であるのに、それが見えないとすれば、表現が不必要に誇張されることになるのは当然であらう。 》
自分の欲望で消費しているし、顕示する他人はもはや視野にない。
山崎正和氏も述べているが、自分のなかのもう一人の自分というのが厄介ではある。
納豆汁おのが機嫌をとれずをり(岡田史乃)
『 “かぎりなく他殺に近い自殺”- 香山リカ 死をめぐる50章』
《細部は変えて語りたいと思うが、入院中の青年が冬の夜、病棟を抜け出して飛び降り自殺を遂げたことがあった。彼は、いつも明るくてユーモアを解する人だったが、周期的に出現する激しい幻聴に悩まされていた。声の主にはまったく心あたりはなかったが、いつも男の恐ろしい声で「死ね」と命令されるという。おそらくその夜も、突然、その声が聞こえてきたのだろう。泣きながら玄関を走り出ていく彼の姿を目撃した人がいたことが、あとになってわかった。幻聴はあくまで、彼の脳が生み出した声である。彼自身は死にたくなかったにもかかわらず、その命令に泣きながら従わざるを得なかったのだ。 》
願い事-叶えてください。社会的動物としては半分死んでいる。心地好い死だ。
写真は昨日一撮の江戸川。
五十里の二里が残れる春の川(駄楽)