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2/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風」岩波文庫

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2/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

その辺に血にても流れをり候哉と見廻し候へども、これまたそれらしき痕[あと]も相見え申さず候。さては両人共崖に墜ち候が勿怪[もつけ]の仕合にて、手疵も負はず立去り候もの歟[か]など思ひながら、ふと足元を見候に、草の上に平打の銀簪[かんざし]一本落ちをり候は、申すまでもなくかの娘御の物なるべくと、何心なく拾取[ひろいと]り、そのまま一歩二歩、歩み出し候処、またもや落ちたるもの有之候故、これも取上げ候に革の財布にて、大分目方も有之候故、中を改め候処、大枚の小判、数ふれば正しく百両ほども有之候。これ必定[ひつじよう]、駈落の侍が路用の金なるべしと心付き候へば、なほ更空恐しく相なり、後日の掛り合になり候ては一大事と、そのまま捨て置き立去らむと致せしが、ふとまた思直[おもいなお]せば、この大金このままここに捨て置き候へば、誰か通がかりの者に拾はるるは知れた事なり。かつはまた金の持主は駈落者にて、今は生死のほども知れずに相なり候者故、これぞ正しく天の与る所。これを受けずばかへつて禍をや蒙らむと、都合好き方へと理をつけ、右の金子財布のまま懐中に致し候ものの、俄に底知れず恐ろしき心地致し、夢が夢中にて走り出し候中[うち]、夜は全く明けはなれ、その辺の寺々より鉦や木魚の音頻[しきり]に聞え、街道筋とも覚しき処を、百姓供高声に話しながら、野菜を積み候荷車を曳き行くさま、これにて漸[ようや]く二本榎より伊皿子[いさらご]辺に来かかり候事と、方角も始て判明致候間、急ぎ芝山内へ立戻り候へども、実は今日まで、身は持崩し候てもさすがに外泊致候事は一度も無之、いつも夜の明けぬ中に立戻り、人知れず寝床にもぐりをり候事故、今はその時刻にも遅れ候て、わが学寮へは忍入る事も叶ひ申さず。かつはまた百両の金の隠し場所にも困候故、そのまま引返し、とぼとぼと大門のあたりまで参候処、突然後より、モシ良乗[りようじよう]殿、早朝より何処[いずこ]へお出[い]でかと、声掛けられ、びつくり致し振返れば、浄光寺と申す山内末院の所化にて、これも愚僧などと同様、折々悪所場へ出入致し候得念[とくねん]と申す坊主にて有之候。京橋まで用事有之候趣にで、同道致候道々、愚僧の様子何となくいつもとは変りをり候ものと見え、何か仔細のある事ならむと頻に問掛け、果は得念自身問はれもせぬに、その身の事供[ども]打明け話し候を聞くに、得念は木挽町に住居致候商家の後家と、年来道ならぬ契[ちぎり]を結び、人の噂にも上り候ため度々[たびたび]師匠よりも意見を加へられ候由。しかる処後家の方にても不身持の事につき、親戚中にてもいろいろ悶着有之候が、万一間違など有之候ては、かへつて外聞にもかかはり候事とて、結局得念に還俗致させ候上、入夫[にゆうふ]致させ申すべき趣。内談も既にきまり候に付、浄光寺の住職方[がた]へは改めて挨拶致し、両三日中[さんにちちゆう]には抹香臭き法衣[ころも]はサラリとぬぎ捨て申すべき由。人間若い時は一度より外無之[ほかこれなき]もの故、愚僧にも今の中とくと思案致すが好いなど申し続け候。その日は得念に誘はれそのまま後家方へ立寄り候処、いろいろ馳走に預り候上、風呂に入候処、昨夜よりの疲労一時に発し、覚えずうとうとと眠り催し驚きと目を覚し候へば、日も早や晩景に相なり候故、なほなほ驚き、後家始め得念にはいずれ両三日中重て御礼に参上致すべき旨申し、熱く礼を陳[の]べ候て立出[たちい]で候ものの、山内の学寮へは弥々[いよいよ]時刻おくれて帰りにくく、さりとて差当り行くべき当[あて]も無之候の上、足の向くがまま芝口[しばぐち]へ出[いで]候に付き、堀端[ほりばた]づたいひに虎の門より溜池へさし掛り候時は、秋の日もたつぷりと暮れ果て、唯さへ寂しき片側道、人通も早や杜断[とだ]え池一面の枯蓮に夕風のそよぎ候響[ひびき]、阪上[さかうえ]なる葵の滝の水音に打まじりいよいよ物寂しく耳立ち候ほどに、わが身の行末俄[にわか]に心細く相なり土手際の石に腰をかけ、ただ惘然[ぼうぜん]として水の面を眺めをり候処、突然後より愚僧の肩を叩きコレサ良乗殿。大方こんな事と思ひし故、心配して後をつけて参ったのだ。と申し候は今方木挽町なる後家の許[もと]にて別れ候得念なり。得念は愚僧をは身投げにても致す心に相違なしといろいろに申候末、あたりを見廻し急に言葉を改め、愚僧が懐中に大金を所持致すは、大方山内の宝蔵より盗みし金なるべし。友達の誼[よし]みに他言は致さぬ故、半分山分けに致せと申出で候。さては最前風呂より上り、居眠り致候節見抜かれしと思ひ、昨夜の顛末委[くわ]しく語りきかせ、実はこれよりその屋敷を尋ね、金子[きんす]を返却致したき趣[おもむき]申聞かせ候へども、得念一向承知せず。果は押問答の末無法にも力づくにて金子を奪[うばい]取らむと致候間、掴[つか]み合の喧嘩に相なり候処、愚僧はとにかく十五歳までは武術の稽古も一通は致候者なれば、遂に得念を下に引据ゑ申候。得念最早や敵[かな]はずと思ひ候にや、忽[たちまち]大声にて人殺しだ。泥棒だと呼続[よびつづ]け候故、愚僧も狼狽の余り、力一杯得念が咽喉[のど]を締め候に、そのままぐたりと相なり、如何ほど介抱致候ても息を吹返す様子も相見え申さず候故、今は如何とも致しがたく、幸闇夜にて人通なきこそ天の佑[たすけ]と得念の死骸を池の中へ蹴落し、そつと同所を立去り戸田様御屋敷前を通り過ぎ、麻布今井谷湖雲寺門前に出で申候処、当時はまだ御改革以前の事とて長垂阪[ながたれ]上の女郎屋いたって繁昌の折から、木戸前を通りかかり呼び込まれ候まま、ここに一夜を明し申候。誠に人間一生の浮沈は測りがたきものなり。偶然大金を拾ひ候ばかりに人殺の大罪を犯す身となり果[はて]候上は、最早や如何ほど後悔致候ても及びもつかつかぬ仕儀[しぎ]にて、今は自首致して御仕置を受け申すべきか。さらずば、運を天に任せて逃げられ候処まで逃げ申すかの二ツより外に道は無之候。今更懐中の金子を道に棄て行き候とも、人殺の罪は免れぬ処と、夜中まんじりとも致さず案じ累[わすら]ひ候末、とにかく一先[ひとまず]何地[いずち]へなり身を隠し、様子を窺ひ候上、覚悟相定め申べしと存じ、翌朝麻布の娼家を立出で、渋谷村羽根沢の在所に、以前愚僧が乳母にて有之候お蔦と申す老婆。いたって実直なる農婦にて、二度目の婿を取り候後も、年々寒暑の折には欠かさず屋敷へ見舞に参候ほどにて、愚僧山内の学寮へ寄宿の後も、有馬様御長屋外の往来にて、図らず行逢ひ候事など思い浮べ、その日の昼下り、同処へ尋[たずね]行き申候。思[おもい]の外[ほか]手びろく生計[くらし]も豊かに相見え候のみならず、掛離[かけはな]れたる一軒家にて世を忍ぶには屈竟[くつきよう]の処と存ぜられ候間、お蔦夫婦の者には、愚僧同僚の学僧と酒の上口論に及び、師の坊にも御迷惑相掛け、追放同様の身と相なり候にて依り、一先[ひとまず]国許へ立退きたき考えなれば、四、五日厄介になりたき趣を頼み候処、心好く承知しくれ候故、ゆつくり疲労を休め、縞の衣服、合羽など買求め候得[そうらえ]ども、円き頭ばかりは何とも致方無御座[いたしかたごさなく]候間、俳諧師かまたは医者の体[てい]に粧[よそお]ひ、旅の仕度万端ととのひ候に付き、お蔦夫婦の者に別れを告げ、教へられ候道を辿[たど]りて、その夜は川崎宿に泊り申候。

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