「踊り場の光景 化粧・衣装 - 佐々木幹郎」大正=歴史の踊り場とは何か から
化粧品が産業として成立したのは明治三〇年代の後半であったと言われている。それまで化粧品は、小間物の付属品として扱われていた(『資生堂宣伝史』Ⅰ)。化粧において女性の個性は認められず、誰もが同じように白粉[おしろい]を厚く塗っていた。色白の人が美人の最大の基準であった。明治末年から大正初年代にかけて、以下の化粧品メーカーとその製品があった。伊東胡蝶園の練り白粉「御園[みその]おしろい」、粉白粉「御園の花」、水白粉「御園の月」。中山太陽堂の「クラブ美身クリーム」、「クラブ洗粉」。平尾賛平商店の「小町水」、「乳白化粧レート」、「レートクレーム」。桃谷順天館の「美顔水」。資生堂の練り白粉「かへで白粉」、化粧水「オイデルミン」など。
小説家の宇野千代は生まれつき色黒であったと言い、娘時代に色白になれないと幸福は来ないと思い込んでいた。大正三年(一九一四)、彼女が一七歳のときの化粧法は、次のようであった。「昔のお化粧というのは、まず何をおいても、顔に白粉を白く塗ることでした。白粉をぺったりと白く塗れば、瞬間的に色黒が隠れます。(中略)まず顔を洗って、クラブビシンクリームを塗り込み、それからクラブ煉白粉[ねりおしろい]を手のひらにといて顔中から襟にかけて塗り、その上を、大きな牡丹刷毛[ぼたんはけ]にお湯を一ぱい含ませて、幾度となく撫[な]でながら白粉をおちつけてから、乾いたガーゼで水気を払い、さてそれからその上に、クラブ粉[こな]白粉を軽くはたいて、口紅をちょっとつけ、頬紅をはたき、一番あとで眉の仕上げをしました。」(『私のお化粧人生史』)。この時期、大阪の中山太陽堂のクラブ化粧品は、東京の平尾賛平商店のレート化粧品と人気が二分されていて、「東のレート、西のクラブ」と言われていた。
長谷川時雨は『美人伝』(大正七年=一九一八)で、明治・大正期の美人の評伝を書いたが、この時代に「三美人」と呼ばれたのは、九条武子、柳原白蓮[びやくれん](★子[あきこ])、日向[ひなた](後、林)きむ子であった。時雨はきむ子について「洋風の頬を匂わせた化粧ぶり」と書いている。きむ子はフランスから取り寄せた肌色の白粉を使っていたらしい(森まゆみ『大正美人伝』)。それまで白粉は「白色」に決まっていたが、この時期から自然な肌色の白粉が使われ出したのである。
大正五年(一九一六)、資生堂の初代社長・福原信三は社内に「意匠部」を発足させた。意匠部は主に商品デザインを担当する広告宣伝部だが、ポスターや新聞広告から店舗設計までここで行なった。画家の川島理一郎、小村雪岱[せつたい]、デザイナーの山名文夫[あやお]などがいた。大正期の新聞広告は枠内に文字がぎっしり詰まっているのが普通だったが、資生堂の広告は枠内の文字数が少なく、余白を生かした独特の雰囲気を作り上げた。ゆるやかな曲線の多い一九世紀のアール・ヌーボーのデザイン思想が影響していた。後にこの思想は、資生堂書体と言われる、広告文字の書体考案に結びつく。
大正という時代は、女性の衣服が和装から洋装に変わり、髪形が洋髪に変わり、それにともなって化粧品も化粧法も変化していく、現代につながる過渡期であった。資生堂は、大正一一年(一九二二)に、広報活動の一環として、美容科、美髪科、子供服科という「三科」を発足させた。美容科は女性の皮膚の相談にのり、それにあわせた化粧品の選択を勧めた。美髪科はアメリカから美容師ヘレン・グロスマンを呼び、日本髪のままだった女性たちに欧米の束髪の方法を教え、「耳隠し」という新しい髪型を普及させた。ちなみに、この時期までの日本女性は洗髪を滅多にしなかった。日本髪を結うのには時間とお金がかかったこともあるが、髪を洗うと傷むと考えられていたからである(和田博文『資生堂という文化装置』による)。頭髪油を濃厚につけるという習慣があり非衛生的でもあった。女性たちに洗髪を普及させたのも美髪科である。ここで美容師の養成もした。子供服科はパリ帰りの武林文子が子供服の洋裁技術を指導した。大人はまだ和装が中心だが、洋服で育った子供たちは大きくなると洋服になる、という将来を見越した企画である。また、子と母の雑誌『オヒサマ』を創刊した。鈴木三重吉らの童謡雑誌『赤い鳥』(大正七年創刊)が童謡運動を起こしたことと連動していた。
関東大震災(大正一二年)の後、女性の社会進出が進んだ。津野海太郎は大震災後、「化粧品業界に『化粧品を女性の意識改革のシンボルとして押しだそう』という動きが生まれる」と述べている。「これまで家庭にとじこめられてきた女性が、新しい化粧品と化粧法によって生気を獲得し、街路や仕事場にさっそうと進出してゆく。すなわち化粧品によって女性を変え、ひいては社会までも変えてしまう」(『花森安治伝』)。
大震災後、東京の銀座を散歩する若い女性に、モダン・ガール(略称「モガ」)が現れるのは、大正末年から昭和初年代であった。モダン・ガールをどのように定義するかは、同時代の人間もとまどった。「資生堂月報」大正一五分(一九二六)六月号に、「Modern Girl」と題した座談会が掲載されている。「髪は耳かくし、眉は綺麗に剃り(中略)外股で勢よく歩く度に蹴出[けだし]をパツパツととばしてゆく婦人」と一人が言えば、他の一人は「化粧にしろ服飾にしろそれを批判するだけの頭を持つてゐて、外部に現はし得[う]るものが真のモダンガールである」と言う。「唇はあくまで赤く、白粉は紫や緑やさては黄[きい]などをふんだんに使つて、頬紅も鮮やかに入黒子[いれぼくろ]に描き眉毛、尚目に墨を入れてゐる」。「つまりアメリカ式なのです。しかしそれがよい事か悪い事かは一寸判断に苦しむのです」などという意見も出ている。この座談会では、モダン・ガールは束縛を受けない女性のこととされている。
モダン・ガールの登場とともに、断髪が流行した。断髪はそれまで女性の長い髪を美の基準としてきた日本人の意識を一変させた。しかし、モダン・ガールも断髪も、初期は年上の女性たちからも男性からも嘲笑と揶揄の対象であった。宇野千代は小説家のなかで断髪をした最初の女性であった。それに影響を受けて吉屋信子など女性作家たちの多くが断髪をした。嘲笑と揶揄は同時代の意識的な女性をさらに活気づけたのである。
化粧と衣裳とがファッションとして結びついたとき、化粧は薄化粧に、衣裳は身体をを締めつける和装から、仕事をする女性として、身体が動きやすい、ゆるやかな洋装に移っていった。その起爆剤としてモダン・ガールがいたとも言える。和装は仕事が終わったとき、くつろぐときの衣裳になるという生活スタイルが、このときから出来上がった。