12月17日火曜日
寒々とした一日でございまして、冬籠りでございました。
朝寒や今日より若い日はあらず(内藤悦子)
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One paragraph essay clubに参加申込みがあり、その方は今のところ5グループに所属しているだけなので承認しました。プロフィールを見てみましたが、投稿は期待できないようですなあ。
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抗不安剤という薬があるそうで、その薬を必要とする人のうちで65才上の人の割合が高いらしい。他の薬との併用で問題があるとゴミ捨てに使った新聞に載っていた。
老いての身体の病は辛いが、心の病も辛い。個人差は大きいのだろうが、年寄りになるとこういう鬱々として絶えず何かに怯えていてくよくよ心配してしている心理状態
になることを知らなかった。
心配も不安も怖れも自分ではどうにもならない事ばかりだから、諦めればよいのだし、死んでもいいやと諦めればなおよいのだろうが、よほど修行しないと心をコントロールすることはできないな。
絶対の安堵に死とふ涼しけれ(密門令子)
どうしてもこの句になるし、ここしか逃げ場ないのである。
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「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から
を読んでみました。
《このキュープラー・ロスの五段階に分けた考え方を「ロスの五段階説」とアメリカで呼んでいるが、多くの支持者がある。現に宗教学者だった岸本英夫さんが、皮膚ガン(メラノーム)に冒されて亡くなった記録『死を見つめる心』(講談社)のなかでも苦悩する心のゆれが微妙にえがかれているが、実際にこの五段階を経過して安心立命の境地に達している。
ただ、少し「ないものねだり」のようなことをいうといわれるかもしれないが、私たちは“死に病”に冒されてから、はじめて「死」を考える。そして五段階を経由して、最後に“あきらめ”の心境に近いものになって死んでいく。これを、もう少し、早い時期から考えておくということができないものだろうか。「人間には欲望があるから、そんなことはできない」と否定する人も多いだろう。たしかに、そのようにも思える。しかし「人間はいつかは死ぬ」というのも数少ない真実のひとつである。だとすれば「やがて死ぬのだ」という認識を持つことは、必要なのではないだろうか。せこを出発点として人生を生きていくのと、そうでない生き方とはまったくちがうのではないだろうか。人生はマラソンに似ているといわれる。四二・一九五キロを走り切って、はじめて優勝者が決まる壮絶なドラマがマラソンである。ただ走ればいいというのでは、タイムはおろか、完走もできない。配分も必要だ。五キロを何分で走るかを綿密に計算し、そのとおり、持続して走らねばならない。
ただ、人生とマラソンの違いは、マラソンはゴールの向こうに栄光があるが、人生のゴールの向こうには「死」しかない。》
大丈夫みんな死ねます鉦叩(高橋悦子)