(巻二十四)棒グラフ張り替へ仕事始めかな(山本昌英)
12月8日日曜日
あたしは、今日の句のような苦い句を選べてしまうくらい、お気楽な人生を送ってきたということでしょう。
そして、この句を作った人はどういう人なのかなと思うなあ。棒グラフで部下を搾る立場の人だろうか?雑役の人で棒グラフに名前のない人かな?
営業の出ていく巷に雪が降る (潤)
本日好日、午後は駅前まで散歩に出かけた。タバコを吸わないのでも出かけること嫌がらなくなりました。吸わなければ吸わないで特に苦痛も禁断もありません。
特に催し物はありませんでしたが、香取神社前の歩道橋下で動物保護団体が猫の里親さがしのキャンペーンをしておりました。
ゲージが幾つかテーブルに置かれていて一匹は真っ白な二歳の雄で可愛さが残る鳴き声を出しておりましたよ。
顔舐めて浮世に慣れてゆく子猫(大木あまり)
そう言うふうに猫を見てはねえ。少なくとも頭のよい猫たちは媚びるその人間の社会的地位とか貧富ではなく動物としてのその人間の人間性をみているんじゃないのでしょうかねえ?
もう猫は飼えぬ齢となりにけり(潤)
でございます。
曳舟川-駅前-香取神社-環七-さくら通りと歩き、約六千歩でした。
「法の下の平等を勘違いしてはいけない - 北野武」幻冬舎文庫 全思考 から
を読みました。
《 今の小学校の一クラスが何人かわからないけれど、20人か30人の子供の集団ひとつとってみても、子供の能力にははっきり差がある。だけど最近は、運動会の徒競走でも、ひとりひとりに順位をつけない学校が多いらしい。
クラスの全員が走るリレーをやらせて、みんなで協力してひとつのことを成し遂げましたとか、手をつないで仲良く一緒に走りましょうとか。
まるで、テレビのインチキ臭い学園ドラマだ。
受験にしても、社会に出てからの競争にも、将来は完全な勝ち抜き戦が待っているというのに、だ。
その中で戦っていかなきゃならないのに、誰にでも無限の可能性があるなんてことにしてしまったら、逆に、落ちていく人間に対しては愛情の欠片[かけら]もない。
ほんとうは勝負をさせるべきなのだ。負けて悔し涙を流す子供には「だけど、お前は算数の勉強はできるんだから」とか、フォローの仕方はあるだろう。
誰にでも無限の可能性があるという前提では、お前の努力が足りないという結論で終わってしまう。負けたのは、努力が足りなかっただけだ。そう子供に言い続けるのは、見込みのない漫才師志望の若者の耳元で、「頑張れば、いつかは売れるよ」と囁くようなものだ。愛情でもなんでもない。どんなに努力したって、できないヤツはできないのだ。 》
才無くて鶴女房と夜なべかな(星野石雀)
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(巻二十四)棒グラフ張り替へ仕事始めかな(山本昌英)
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