「素白先生の散歩道 ー 池内紀」新・ちくま文学の森心にのこった話 から
旧川越街道は練馬を復けて成増、ついで野火止の平林寺のわきをかすめていく。地名標示が東京都板橋区から埼玉県和光市にかわる旧道わきに「白子坂下」というバス停があって、細い道がわかれ、ゆっくりS字型にうねりながら古い家並みへと入っていく。川越街道間[あい]の宿、白子の里である。 かつては江戸市中から半日がかりだったのだろうが、現在は東上線で池袋から十五分、営団地下鉄が乗り入れていて有楽町から三十分とかからない。
成増の方から歩いていくと、通りが急に直角にまがる。いわゆる鉤[かぎ]の手になっている。小橋のある小さな川が白子川、左に寺の屋根が見える。かみ手の高台にこんもりと繁ったのは白子の観音堂だろう。街道を往き来した旅人は、休息をかねて観音さまにお参りした。ついでにソバやうどんを食べていった。そういえば角に半分ばかり板戸を閉めたままの家があって、古風な丸窓がのぞいている。「御休所」などと書いた紙障子があってもおかしくない。
この里のことを、私は岩本素白の本で知った。死後二年してまとめられた『素白集以後』(昭和三十八年)に「白子の宿」の表題で入っている。この風雅な国文学者は、「何の奇もない所を独りで歩く」のが大好きで、ある日、平林寺に行くはずのところ、白子に往き合わせた。そのころはまだ間の宿の雰囲気を色こくとどめていたようで、間口の広い、奥庭をもった商家の薄暗い店先に大きな茶壺が見えた。酒でも造っていたらしい構えの家に銘酒の瓶が並んでいた。白子川には管[くだ]をしつらえ、水を高く吹き上げる装置があって、その落ち水で女たちが洗濯をしていた。高台の奥に 「如何に神とはいへ淋しからうと思はれる一宇の社」があって、一筋の細い道がつづいている。
『素白集以後』が刊行された年の翌年、東京オリンピックがあった。新幹線が走り出した。「所得倍増」の掛け声のもとに、世は高度成長でわき立っていた。高速道路がつくられ、万国博が開かれた。町々は、みるみるうちに変わっていった。
以来三十余年、もっとも変貌のはげしい東京郊外の一角、そこに時の忘れ物のような風景がある。 都心で早目に用を終えたときなど、私は電車にとび乗って、成増で降りる。それからブラブラと歩いていく。
白子川はコンクリートで固められたが、水はそれなりに澄んでいる。北側に長くのびた丘の東のはしが観音堂だ。新倉、根岸、田島といった地名は、荒川を抱きこんだような丘陵がつづいていて、 そこに山里めいた集落が生まれたせいだろう。旧道は微妙にうねっているので歩くのがたのしい。プレハブの家の並びが切れたところに、昔の地主らしい長屋門をそなえた家が控えている。庭から落ち葉を燃やす悪が立ち昇っている。白い煙が横すべりをするように流れていく。「人を誘ったところで、到底一緒に来さうもない所」だと岩本素白は書いている。が、まったくそのとおりである。 素白先生はまた、ひとりで歩きながら考えた。以前は、世間に、聡明な人はきわめて多いが、善良な人はごくマレだと思っていた。ところがこのごろ、善良な人はあんがい多くて、ほんとうに聡明な人はほとんどいないということに気がついた。
「こんな考へ方は、私の歩くつまらない道と共に、大方の人はこれを笑ふであらう」 むろん、私は笑わない。