「英語学習者の心理分析 ― 黒田龍之助」ポケットに外国語を ちくま文庫 から
英語は現代日本の外国語の中で特殊な位置を占める。需要も供給も巨大な一大市場であり、学習者もまた膨大な人数である。これだけ多くの人が勉強していけば、いつか誰もが出来るようになる日が来てもよさそうなものだが、どうもその気配は一向にない。その理由を、英語学習者の行動を分析を試みたい。
1 愛される英語
まず英語はとても愛される。
あるとき思い立って英語の勉強を始める。そしてそのことを友だちに話す。最近、英語を始めてね。へえ、そうなんだ、英語を勉強してるんだ・・・。でも、なぜ?とは決して尋ねてこない。英語は愛されてのが当然だからである。
これが、たとえばロシア語だったとする。すると友だちは急に質問を始める。なんでまた?ロシアへ行きたいの?ロシア人の知り合いでも出来たの?ロシア語をやるとなんかいいことがあるの。危ない商売にでも手を出したの?もしかして共産主義者?(さすがに最後の質問は最近では聞かれなくなった)
そして更にもっとマイナーそうな、たとえばネパール語やスワヒリ語だったりすると、相手は再び静かになる。納得しているのではない。絶句しているのである。
英語を学習するということが社会的にどのような意味を持つか?これについては暗黙の了解が成立している。英語は実用的で利益と結び付く。生活の向上を目指して何かを始めることは、理解しやすい。たとえ相手が興味を示さないことはあっても、否定的にとられることはない。
英語はいまや国際語である。これもみんなが認識している。英語を勉強するにあたって、その興味が英語を話している地域と結びつかなくても別に構わない。むしろ特定地域と結びつかないほうが望ましい。そのほうが「グローバルな」地球語に相応[ふさわ]しい。
みんなが理解を示してくれるので英語を始めるときの心理的ハードルは低い。応援する声すらあるだろう。これからは英語だよ。英語の勉強は絶対に損にならないよ。だから学習環境を整えるのも、至って簡単である。
書店に行けば、迷ってしまうほど教材がある。テープやCDがついているものも多い。そしてそれが極めて安い。テレビやラジオでは講座が何種類もあるし、映画だってテレビの音声多重放送で英語も選べる。英語を教える学校もたくさんある。ちょっとお金を出せば、入門から上級までさまざまなレベルに応じたクラスがある。その他、ネイティブにも教えてもらえる。少人数のクラスもある。個人レッスンにすれば、自分の都合のよい時間に勉強できる。
英語の勉強を開始するとき、人は希望に満ちあふれ、気分はすがすがしい。これだけ教材が出回り、学校が林立し、その割に多くの人が苦労している様子を見ても、なぜか不思議に思わない。もしかして英語ってものすごく難しいんじゃないか、などという不安は微塵も感じない。
これが他の言語の場合には、いろいろと苦労がある。まず教材が豊富にあるとは限らない。学校を探しても入門クラスさえなかなか見つからないこともある。たとえあったとしてもそれに続く中級以上のクラスがない(外国語学校では入門クラスがいちばん儲かる)。その上、本人は意気揚々と学習を始めたところへ、周りから「〇〇語って、とっても難しいんですってね」などと言われて不安になってくる。
このように他の言語と比べた場合、英語は明らかに便利に出来ている。人気があるのも当然だろうし、また愛されるべくして愛されているのである。
2 急ぐ英語
現代社会は何事においてもテンポが速く、いろいろなことが猛スピードで駆け抜けていく。英語も例外ではない。
英語学習者は常に急いでいる。早く上達したい、すぐにでもペラペラ話せるようになりたいと夢想する。イメージトレーニングも悪くはないが、その時間を学習に充てたほうが効果的ではと思う。
人によってはすぐにでも目に見える効果を期待する。いや、そういう人の方が多い。昨日蒔いたばかりの種を一時間ごとに見回って、いつ芽が出るかとヤキモキしている。これでは猿蟹合戦のカニである。
なにも本人ばかりが急いでいるわけではない。今どき英語を始めるのは、自分の意志ばかりとは限らない。会社の命令で急に英語が必要になった。そうなったらのんびりとはしていられない。会社がお金を出して教育してくれる分、学習者にもプレッシャーがかかる。精神衛生上、これは誠によろしくない。仕事上の必要から学習を始めたときには、それが何語であるかは関係ない。どれもそれなりに急いでいるし、効果も期待されている。
だが中には仕事と関係なく、趣味としてやりたいから始めた人もいる。いい趣味である。なのにこういう人が急いで効果を期待しているとしたら、まったく分からない。
いずれにせよ、どんなに急いでも、またそれが自分のためであれ、会社のためであれ、なかなか思うようにうまくはならない。なぜか?そういうものだからである。
たとえば日舞や三味線などは上達までに時間がかかる。これは社会的に認知されている。どんなに才能があっても、うまくなるにはそれなりの時間が必要だ。
実は英語もそうなのである。ピアノ並に時間がかかると思っていただきたい。レッスンだけではだめだ。家に帰っても多くの時間をかける必要がある。
でもなかなか身につかないからこそ、それをマスターすれば利益と結び付くのだ。誰にでも簡単な言語だったら、そんなの出来ても羨ましくない。それにあまり簡単すぎてはつまらないではないか?ゲーム好きはどんどん複雑な新作に挑戦していく。
だから焦っても無駄なのだが、これがなかなか分かってもらえない。語学に限り、魔法が効くとでも考えているのだろうか?
もう一つ。速く覚えたことは速く忘れる。
入門しやすいこと自体は別に悪くない。なにも別に悲壮な決意を固めて始めよとはいってない。ただ、気軽に始めたものはまた気軽に止めてしまいがちなところが気になる。
3 恨まれる英語
急いでもうまくならないと、だんだんに不満がたまってくる。時間をかけていないだって?そんなことはない。だいたい、成人に達するまでに英語にまったく触れたことのない日本人なんて、ほとんどいない。義務教育を受ければ、英語はいやでも学習する。そして本当にいやになる。
不満が多いのは、果たして成果が上がらないという理由だけだろうか?義務教育で学習する他の科目には、みんな満足しているのだろうか?満足かどうかはともかく、批判をあまり受けない科目は存在する。絵を描くのが下手でも、美術教育を非難することは少ない。料理がうまくできない理由を、家庭科の先生のせいにすることは稀だ。いまや趣味から社交にまで発展した日本文化であるカラオケ。それなのに音痴だったら、人によっては英語と同じくらい悩んでしまう。だからといってかつて習った音楽教師を呪うだろうか?
そこには「英語はうまくなるはず」という楽観主義がある。あぜならばアメリカやイギリスではみんな英語を話しているではないか!ことばは誰でもできるようになるはずだ。それが証拠に日本語はできる(ここには疑問の余地がない)。美術や音楽のような、才能の問題ではない。そこでその原因をさまざまなものに求める。
日本の英語教育のどこが悪いのか:
1、つまらない 2、文法を重視しすぎる 3、教える内容が実用的ではない 4、会話を教えない 5、一クラスの人数が多い 6、学習を開始する時期が遅い 7、自然に楽しみながら学べない 8、教師が外国人ではない 9、日本人教師の発音が悪い 10、日本人教師の性格が悪い。
言いたい放題である。これでは英語の先生が気の毒だ。
しかしそれ以外に理由を求めることもある。
1、現地で学んでいない 2、外国人と接する機会がない 3、外国人と接するのが苦手だ 4、発音が難しすぎる 5、文法が難しすぎる 6、子どものころからやっていない 7、親が外国人ではない 8、親が海外勤務ではなかった 9、親がケチで、アメリカンスクールに通わせてもらえなかった 10、日本人にはそもそも無理だ
いずれにせよ、「自分が悪い」といわないところが特徴である。もちろん「すべてわたしが悪いのでございます」と懺悔されても困る。
4 捜す英語
急いでも効果は上がらない。恨んでも仕方がない。だったらどうしたらよいのだろう。原因はいったい何なのか?
その理由をたとえば学習法に求める。もしかしたらやり方が悪かったのではないか?それならば改善策はいろいろと考えられる。
新しい教材や学校が次々と現れる。最新メソッドといわれると気持ちが揺らぐ。後から出来たものの方が質のいいのは当たり前である。今までのは古いやり方だったからダメだったのだ。そして新しいものを試す。その際またしてもお金をかけることを厭[いと]わない。そしてそれがどのような結果になるのかはだいたい想像できるだろう。
その他にも、うまくなった人の体験記を聞いたり読んだりしてみると、どうも自分とは違う。ここで人にはそれぞれのやり方があるからとは考えない。なんだかそっちのほうがよさそうに思えてくる。
こうして、いつでも最新で最善の方法を求めて止まない、さまよえる学習者が出現する。自分に合った英語学習法を捜し続ける。しかしどの方法を試しても、すぐに飽きてしまい、効果がないと決め付ける。
しかし、本当に効果的な方法を純粋に求めているのだろうか?
どうしたら英語がうまくなるでしょう?こんな大事なことをいとも気軽に尋ねてくる。そこで最近は「単語を一万ほど覚えたらいかがでしょう?」というようにしている。
英語のように屈折性が失われ、中国語のような孤立語タイプに近づいている言語は、とにかく語彙が命。それから熟語も大切。ごちゃごちゃ言わずに覚えるのです。
もちろん、孤立語タイプでは語順を中心としたシンタクス(統語論)も重要。しかしそれでもなんでも、単語を一万も知っていて英語が出来ないという人は聞いたことがない。これだけの単語を覚えていくうちには、文法だってついてくるでしょう。乱暴なようだが、努力する価値はありそうではないだろうか?
ところがこのアドバイスはあまり喜ばれない。そんなの無理だという。そういう苦しそうな方法は遠慮したい。みんなつらいことはいやなのだ。確かに一万語というのはオーバーだ。実際に同僚の英語教師も「一万とはまた大きくでたね。そんなにいらないよ」と笑う。
もちろんわたしだって無理を承知でいっているのである。あんまり虫のいいことばかりいうので、少し脅かしてやったまでです。他にも「滝に打たれろ」とか「青汁を飲め」というのも加えておきたい。もちろん、効果の程は限りなく怪しい。ここまでくると誰もわたしの話を聞いていない。
つまりは捜しているのは、あんまり苦労しないで上達する秘訣なのだ。だったら「どうしたら楽して英語がうまくなるでしょう?」と聞いていただきたい。そういう場合には、そんなことは無料では教えられません、という答えを用意している。
でも手近で出来そうなところを一つ。
少ない教材を徹底的に学習する。本当はこれがいちばんいい。だけどみんな案外これが出来ない。情報の多い時代は不幸である。もっとも情報の多いのは英語だからであり、言語によっては次々と教材を変えられるほど種類もない。手に入るだけありがたいと思い、あとはその教材とひたすらニラメッコするのみだ。
もしかしたらそのほうが幸せかもしれない。
5 競う英語
本来は自分のための英に語学習なのに、みんな競いたがる。それが証拠にずいぶんといろいろな検定試験がある。
英語はどのくらい出来ればよいのか?基準は自分だ。自分に必要なことがこなせればいい。その際に
客観的な判断はいらないはずである。もっとも会社から金を払ってもらっているならば、結果は出さねばなるまい。効果を期待されて当然である。でも、そういう人ばかりではない。なのにあれほど盛んな検定試験。これはどう考えても、競うのが好きな人がたくさんいるからとしか考えられない。
確かに何か目標があれば、それに向けての努力もしやすい。試験があれば勉強する気にもなる。最近では検定試験に合わせて、さまざまなレベルの教材が増えたのはありがたい。そういう問題集を地道に解いていけば、知識を満遍なく身に付けられるし、自分の弱点も分かる。
いずれにせよ検定試験も試験なのだから、受験すればなんらかの結果が出る。別に満点を取らなくても、ある一定のレベルに達すれば合格である。試験によっては点数を示してくれるだけのものもある。
まあいい。試験に受かった。かなりのパーセントが正解だった。おめでとう。
で、それから何があるのですか?
受験だったら学校に入学して、卒業を目指して勉強しなければならない。では検定試験は受かったら何をするのか?
もちろん、検定試験が受かれば外国語の学習は終わり、というわけではない。むしろその先が大切なはずだ。さあ、せっかくある程度まで外国語が分かるようになりました。ではこれから何をしましょう?読みたかった原書に挑戦しますか?字幕のない映画を観ますか?インターネットで何かを調べますか?それとも・・・
競争原理での学習は受かるまでで終了だ。それからは?そもそも、いったい何のためにこれまで努力してきたんだろう?海外旅行だったらそれほどの語学力はいらない。買い物なんて、向こうは売りたい、こっちは買いたいなんだもの、通じて当たり前だ。友だちを作りたい?あのねえ、友だちってことばの問題じゃないのでは・・・
その上、外国語はメンテナンスがたいへん。昔は結構出来たけど、今ではすっかり忘れてしまって、なんていうのはよく聞く話。今この時点でどんなに出来ても、更なる努力をしなければ、力はどんどん落ちていくことだろう。
いったい、何をしてきたのだろう。
ここまで考えてきたら、あるとに気が付いた。およそ関係がなさそうなのだが、英語学習は意外とダイエットに似ているところがある。
- 愛される。誰にも親しみやすく、すぐに「入門」できる。そして自分は必ず出来ると信じている。だから誰もが自信を持って開始する。
- 急ぐ。目に見えた変化がなければ楽しくない。すぐに何かの効果を期待したい。ところがそうそううまくいくとは限らない。すると、
- 恨まれる。人によっては簡単に出来ることもあるが、多くの人にとっては困難を極める。なんでうまくいかないのだろう?これはきっとやり方が悪かったのだ。そこで、
- 捜す。どこかに簡単なやり方があるはずだ。でも無理はいけない。過激なことをしなくとも、楽に効果が上がるそんな魔法のような方法はないものか?そう考えながら新しい方法を次々と試してみる。もしよさそうな方法が見つかれば、
- 競う。目標を立てて、自分をコントロールして、とにかくまじめに頑張る。しかし達成したあとは何もない。確かに痩せた人や英語の上手な人は出来上がるかもしれない。しかしそれは美しい人や賢い人とは限らない。それだけのことである。